名称 | 美濃まつり |
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時代 | 江戸時代 |
指定年月日 | 平成9年8月27日 |
美濃まつりは「有知のやわた」といわれる八幡神社の祭礼である。祭礼は、明治以降に合祀された熊野社や神宮社等の祭事を合わせて執り行うものである。
試楽祭には「うだつの上がる町並み」乱舞する「花みこし」が舞い、その夜には、笑いを誘う即興劇「美濃流しにわか」が競演する。
本楽祭には「軕」、そして「笹渡り」を初めとする「練り物」の巡行、奉納がおこなわれる。明治末年までは「上有知まつり」と呼ばれ、美濃町に町名が変わると美濃まつりと呼ばれるようになった。
参道は南へと一直線に延び、参道脇には26 組の石灯篭が並び、中世の旧城下町上有知へと延びている。
金森長近により慶長11年(1606年)に中世の城下町上有知から新城下町上有知へ移転すると、新城下町へ移り住んだ人々は「町方」、移転をしなかった上条、下渡、古市場、段の住人は「地方」と呼ばれるようになり、「町方」、「地方」の各町内は八幡神社に軕や練り物を奉納した。祭礼の形態は時代とともに変わったが、現在の美濃まつりの主役である花みこしは、江戸時代に行われた「町騒ぎ」と呼ばれた雨乞行事に由来する。雨乞行事では美濃紙や竹ヒゴを用いて、宝船、馬簾、御所車、廻り灯篭、百八燈等さまざまな「造りもの」といわれる創作作品が造られた。こうした造りものとともに、神輿や神楽、婆娑踊おどり等が町内を練り歩き、港町のお姫井戸、熊野社、八幡神社に雨乞祈願が行われた。
この雨乞行事で用いられた造りものは時代とともに上有知まつりにも用いられるようになり、次第に練り物と呼ばれるようになった。嘉永6年(1853年)には、花みこしの原型となる「花神輿」と「しない丁ちん」が初めて登場する。当時の花神輿は、神輿屋根頂部に数本の花が付けられた質素なものであった。また、しない丁ちんは、しない竹を十数本用いその下に提灯を付けたもので、この二つが合わさり、現在の花みこしとなった。
昭和初期、各町内の若衆は、美濃紙の産地らしく「しない竹」に紙の花をつけ、みこしの上に300本のしないを取り付け、うだつの上がる町並みを乱舞した。豪華なうだつを上げた商家は、美濃紙で繁栄した象徴であった。そして上有知の人々はみこしにも繁栄の象徴となる花みこしを造り上げた。