みなさんは洋紙と和紙の違いを知っていますか?
みなさんが毎日使っている教科書やノート、それから新聞紙や雑誌などのように、よく見かける紙のほとんどは洋紙です。この洋紙は「パルプ」と呼ばれる、木の繊維をくだいたものを材料にして機械で作る紙です。
和紙というのは主に「楮(コウゾ)」「三椏(ミツマタ)」「雁皮(ガンピ)」という木の皮の繊維を材料にして作る紙のことで、「楮」には高級な障子紙などによく使われ、「三椏」はお札などに使われています。
美濃市では、「美濃紙(ミノガミ)」というとても有名な和紙が、何百年も昔から今にいたるまで作り続けています。
これから、その「美濃紙」について勉強してみましょう。
美濃紙はいつごろからつくられていたのでしょうか。
今、私たちが住んでいる岐阜県は、「美濃の国」と「飛騨の国」の二つに分かれていました。
約1300年前の美濃の国では、すでに紙が作られていてそれらは『美濃紙』とよばれていました。これが現在の美濃紙の始まりです。
美濃の国の国府(国を治めていたところ。今でいう県庁所在地)があったところは、現在の不破郡垂井町のあたりだと言われていますが、そこで作られた紙が最も古い美濃紙と言われていて、今も奈良県の正倉院に大切に保 存されています。紙の作り方は、この西濃地方からしだいに中濃地方らに伝わり、この美濃市にも広まりました。室町時代には、市内の大矢田に紙の市場が開かれ、岐阜県内だけでなく全国から紙を買いに来る人が集まりました。
美濃の国では、紙の原料となる「楮」の質がとても良く、またたくさん採れました。さらに美濃紙は、他の紙に比べて、見た目にとても美しく丈夫で、日本だけでなく当時の中国にまでそのすばらしさが伝わっていきました。
さらに美濃紙は発展していき、一番盛んに紙が作られていたころは、美濃市周辺の村々でも、約5,000戸の紙すきの家がありました。しかし、現在では30戸弱が残っているだけです。
どうしてそんなに紙すきの家の数が減ってしまったのでしょうか。
戦争が終わって私たちの暮らしは大きく変わりました。住宅では障子のかわりにカーテンやガラス戸を使うようになり、傘は紙でできた和傘からナイロンでできた洋傘を使い、また、印刷機は洋紙を使うコピー機器にかわっていきました。
このように、私たちの暮らしは和紙をあまり使わない生活になりました。すると、和紙を作る人たちもどんどん他の職業にかわっていき、わずかの人だけが残ったということです。
しかし、最近になって和紙の丈夫さ美しさが日本だけでなく外国からも見直されるようになりました。和紙は1000年以上前に作られたものでも、そのまま現在まで残っています。
色がかわりにくく、長持ちするということで、和紙を使わなければできない仕事はまだまだたくさん日本に残っています。
日本の文化は和紙を使って記録され、そして後世の人たちに伝えられてきました。美濃紙は今もいろいろなところで必要とされ、役立っているのです。
手すきの和紙は全て手作業で作られます。最近になって少し機械の力を借りるようになりましたが、基本的には昔から伝わる方法で作ります。
原料は、一般に「楮:こうぞ」が多く使われますが、作る紙の用途によって、「三椏:みつまた」を使ったり「雁皮:がんぴ」を使ったりします。
美濃和紙の歴史についてもう少し詳しく勉強してみましょう。
現存する文書史料の中で、年代がはっきりしているものとしての最古の紙は、奈良の正倉院に残る大宝2年(西暦702年)の戸籍用紙です。
当時は、自国の戸籍用紙は自国で作ったとされ、御野(721年以降:美濃)・豊前・筑前の順で品質が良いといわれ、当時から美濃にはすぐれた製紙技術が存在していたと考えられます。天平年間(710年から794年)には、都で写経用紙として美濃紙が使用されたとの記録もあります。当時の製紙工房は紙屋と呼ばれ美濃国の紙屋は国府の置かれた不破郡垂井町にあったといわれてています。
紙の需要を急激に拡大させたのは、仏教であり、経文や経典の出現によって紙の消費量は膨大となり、紙の生産地も数を増していきました。美濃産の紙は都での評判が極めて高く、縁故を頼って美濃紙を求めたといわれています。美濃の紙は贈答・献上品としても用いられました。
慶長5年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の決戦に臨み、武儀郡御手洗村(現美濃市御手洗)の彦左衛門らに軍勢指揮のための采配の紙を申しつけたと伝えられ、合戦は東軍勝利に終わり、この吉例として以後彦左衛門らは「御紙漉屋」と名乗ることを許されたといわれています。
やがて、美濃紙は江戸幕府御用となり、障子紙を納めることとなり、御紙漉屋は諸役御免で、幕府の手厚い保護の様子がうかがえます。
明治になり、政府は明治6年(1873年)のウィーン万博と同9年(1876年)のフィラデルフィア万国博に美濃紙を出品しました。
同じ頃、長瀬(現美濃市長瀬)の紙商十代目 武井助右衛門が紙の海外取引を始め、美濃紙はいよいよ世界へ送り出されることとなり、輸出先(国)で大好評を得ました。
先人たちの技法が今もなお受け継がれ、薄くて、強くて、むらのない美しい美濃紙が生産され私たちの暮らしの中で使われています。